昭和47年03月27日 朝の御理解
御理解 第80節
「年寄を大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」
「信心させて頂く者はよう心がけておるがよい」。これは、おかげを受けると云う事でも、お徳を受けるというても、矢張り心がけ次第である。心がけの良い人は矢張り、おかげもよく受けます。もう良いお徳を受ける段階になりますと、心がけの悪い人は先ずお徳を受けられません。私はこの80節から、まあここでは「年寄を大切にせよ。」と、こう仰せられますから、年寄を大事にしなければならないもんだと云う事は、皆んな知っています。又言う事です。
けれども、果たして年寄が大事にされておるだろうか。成程若い時苦労しておると云う事も知っておる。けれども、段々もう働きもでけん様になる。なんとはなしに年寄を邪魔者扱いする様になる。ここは尊ぶと云う事を言っておられますけれども、邪魔者にはしないに致しましても尊ぶ反対でいわゆる軽く見る様になる。そう云う事では信心をさして頂く者の、心がけにはならない訳。
だから、此処の所は取分けと云う事になるだろうと思う。信心させて頂く者は取分け、言うならば年寄を大切にする様な、敬わせて頂く様な、私はそういう信心が信心する者には必要だと、その心がけを説いておられるのだとこう思います。先祖を尊ぶと云う事でもそうです。粗末にしとっても誰も何とも催促する者はおりません。お茶でも、例えば水でも、昨日はあげたけども今日はあげとらん。それでも、誰も、霊様、「昨日、お茶忘れとらせんか」なんて云うものは、霊様はありませんからね。
目に見えない所ですから、普通はお粗末にしたがる自然そうなる。年寄と言えばそのご先祖様の一番手前の方なんです。しかも生きて御座る霊様だけを例えば大事にして親を粗末にすると云う事は、これは成程信心ではない事が良く解ります。自分は大事にしないけれども他人からは大事にして貰いたい。そんな人が多い訳ですね。例えば私の方にも90から80、90という両親がおります。他人から大事にされると嬉しい。
自分は、たいして大事にしないけれども、家内や子供やら、には大事にさせたいと、こう思う。子供達が、お年寄に粗末な言葉でも使うと、「お年寄になんち言い方をするか」とまあ普通申します。特に矢張り、例えば是は私にとっては、私の肉親の親ですから、なら家内にも大事にして貰いたい。年寄を粗末にする所がありますよね、本当に粗末にする。親を粗末にするという、ろくそにする積りはないけれども、自然ろくそになっとる。粗末になってる。
そんな例えばここでいうならば、私が両親を大事にして貰いたいなら、私自身が両親を尊ばずして、私自身が大事にしなくて、皆が大事にしてくれる筈がないです。「うちの嫁御は親に対して、その親を大事にしない」。まあそう言う所を思い、見かけますけれども、結局はそこの息子である所の、ここで言うなら私が、粗末にしておる証拠です。他人からは大事にして貰いたい。言葉使いでん「何ち言い方するか」と云う事を言いながら、自分自身が、真からその大事にしてないものね。
「親ちゃ、こげんして扱わなんもんだろうか」、「親ちゃ、こんなにも大事にしなければならないもんだろうか」という、私はここで言うなら私自身がそれを頂いて、始めて家内や子供やらが大事にしてくれると思います「教化は説法ではなく、その人の生活である」教化というのは教え化す、教化すると言うでしょ。例えばそんなら私が親を大事にしなければならないものをです。
親ち言えば、例えばここに書いてある様に、「若い時から随分苦労して私共を育ててもらっとるから、あんた達は大事にしなければならんよ。年寄を大事にしなけりゃいけないもんだよ」と、私がどんなに子供に教えた所でです、口では言わんでも「あなた自身はどうですか」と言う様なものがあったら、それはもう教化にはならない。言うならば、私自身の生活がそれであって始めて、それが無言の教化になるのです。だから教化は説法ではなくて、その人の生活にあるのである。
どんなに素晴らしいお話の上手な先生であっても、先生自身がそれを行のうていないならば、どんなに素晴らしい事を言うても、それは空論になる。言うならば、口ばっかりの先生の所には口ばっかりの信者になってくる。ここで言うならば、私自身が、本当に金光大神の、言うなら信奉者であり行者であって始めてです、信者も又その信心を受ける事に精進する事でしょう。私がどんなにもう御理解を説いても説法さして貰っても、私の生活の全体が崩れておるとするならです、絶対信者は助からんでしょう。
信者も生まれもしないでしょう。ですから言うならば、年寄を大切にせろと云う事であってもです、ここで言うならば、なら私がです両親を大事にして、家内にも子供達にも、またなら御信者さん方にも、年寄を大事にして貰いたいと、こう私は思います。自分の親だから。自分は出来とらんでも、矢張り大事にして貰いたい。それで果たして、大事に皆がするだろうか。
私自身がです、私の言うなら生活の中に、年寄を大事にすると云う事が尊いものであるとして行じておるならばです、「年寄を大事にしてくれよ」と家内に頼まんでも、家内が大事にしてくれる。子供が大事にしてくれる。「うちの家内が年寄を粗末にする。何ちいうこつか」、例えば、言うて聞かした所でです、同じです。ただ大事にすると言うてもね、ただ大事にするだけではいかんです。ここにありますように、敬わなければいかん。尊ばなければいけん。真からなもんじゃなからないかん。
これは皆さん、今日は、信心させて頂く者の心掛けなのですから、良うひとつ聞いといて頂きたい。どうでしょうか、お宅あたりのこれは、自分所のじいさん、ばばさんだけでなくて、よその年寄でも同じ事なんです、年寄を大事にさせて貰う。尊ばさして貰うと云った様な人でなからなけりゃ、おかげは受けられません。もうましてや、お徳を受けると云う様な事は、できません。
第一、自分自身の所の年寄を、子供達にでも、孫達にでも大事にして貰いたいと思うならば、ここで、言うならば、私自身が大事にしなかったら、大事にしません。其処ん所を、教化は説法ではなくその人の生活にあるのである。嫁御がチョット大事にしようとしよる「もう、よかよか。もうほからとけ」ち、主人が言いよってから、もう嫁御が大事にする筈がありませんよね。どうも云う事は要らんここで言うなら、私自身がが本当に年寄を大事にすれば、私の周囲の皆が大事にする筈です。
それは私の生活なんです。ちゃんと私の生活を見ておる。もう24、5年も前の話です。私が福岡でお商売をさせて頂いておる頃、珍しく朝の食事に生卵がひとつ付いておる。私はそれを紙に包んでカバンの中へ作業カバンの中に入れて、それでその日帰って来るから持って帰った。その当時例えば卵一つでも年寄に、わざわざ買うて食べてもらうと云った様な事の出来ない時代なのです。
私は持って帰ってから、家内に「これをお汁の中になっと入れちから、じっちゃんにあげてくれ」と言うて渡したら、家内がその卵を持ってつっと裏の畑へ行きました。一つの卵を持って。どうしょるじゃろかと思いよったら、その卵を持って裏で泣きよった。「親ちゃこげんも大事にせんならんもんだろうか」と思うたとその事を言うております。「年寄ちゃ、こんなに大事にせんならんもんだろうか」と家内が思うたと。「もう年寄を大事にしてくれよ。頼むぞ。」と
「親を大事にしてくれよ」と言うこつもなぁんも要らんです。教化は説法でない事が解りましょう。信心させて頂く者が信心の、雰囲気というものを家庭中に広めていかなければならない。自分の周囲に信心の雰囲気というものを、作って行かなきゃならない。「信心させて頂く者の心がけは素晴らしいなあ」と、皆にも解って貰わなきゃならない。そんなら、私自身が信心ならずして、それをそういう風にして自分の周囲にもって行く事は出来はしません。
私はこんな、いろんなこう書くとでも、必ず他所の教会から頂いてきた御神米の袋を、こんな風に貯めといてからそれに書かして貰う。沢山貯めてあるのは、みんな白い紙に書いた事はありません。大事にする訳です。私は今日、年寄を大切にすると云う事。尊ばなければいけないと云う事。それが信心する者の心がけぞと説いておられるけども、これはあながち、必ずしも年寄という意味の事ではないと思う。例えば神様の御物としてです、例えば反古紙1枚でも大事にすると云う事。
私の所には、もう日々こんなに沢山たまる。必要でないものは、私の書いたり控えたりするものは、それをチャンととっといてからする。こげんも大事にしなければならないもんだろうかと、段々解ってくれる人が出来てくると、それを教える為にこうするのではない。そうしなければ居られんのである。卵でも同じ一つの卵でも嫁御に年寄を大切にさせる為に持って帰るのではない。そうしなければ居られんのである。
信心者の心掛けです。私は、親教会の御神米の包装紙やら、これは久留米教会の、あの御神米ですが、こんなに沢山貯めております。一年に貰ううちには、もう沢山貯まります。私は必ずこれを、だからこう纏まったら纏まったものを、必ずお返しいたします。また使うて頂ける様に。小倉の教会のやつは小倉の教会のをチャンと取っとります。それもあちらこちらの時々ある教会のやつだけは、私はここへ、これは(笑いながら)博多教会のですけれども。
博多教会の御神米だけはこちら頂いて、包装紙だけは取っておいて、こんな風にチョット物を記したり書いたりすっとに致します。今の言わば消費時代と言われる生き方から言うたら、もう馬鹿の様な事ですよ。他人が見たら。また他所の教会のそげんとを持っていってやったっちゃ、もう沢山貯まって。見て御覧なさい。久留米教会のだけでもこがしこ貯まっとる。だから半年毎くらいには必ず、これを持って、あの「また、これをお使い頂ますように」と、持って行きます。
してみると、反古紙1枚でもです。大事にするとか尊ぶとかと云う事が、この80節には、その言外の言として感ずる事が出来ます。「ここには年寄と書いてあるけれども、年寄だけの事ではない、反古紙1枚でも大事にするのぞ。尊ばせて頂くのぞ。」と。もう一遍これは役に立っとる、御神米の包装紙として。だから役に立っとるからそのお礼の意味においてでも、又これを私が大事にすると云う事。「あら、今の時代にそげな事して」。使うたらポンポン。この頃は何でも捨てる事になっちょる。
それが普通だ。昨日は、久留米で青年会の、ここ15周年記念の何か、講演会が久留米教会でありました。ここから沢山青年の方達が参りました。信徒会長も行かれて、昨日帰ってからの話です。「今日は良い話を聞きました。須田幸太郎先生だったそうです。中々学者ですから。成程そのまあ、学者らしいお話だった中にです、そんな話が出たと言うんです。公害問題と云う事が。
それもやっぱり教祖の神様が教えられた様に、昔の言わば御信者さんやら、お徳を受けられた先生方がなさった様に、とにかく反古紙1枚でも、大事に大事に使う時代になって来なければです、公害の解消は有り得ないち。公害がです、例えばなら科学の力で解消する時代には、もうこの世の中がおしまいになった時だと云う風に言われたそうです。そういう、例えば公害の解消を目指すには、宗教人より外にはない。いわゆる、物を尊ぶとか、人を尊ぶとかいう、そういう心の状態。
そういう働きが起こって来なければ、公害の解消はならないという意味の話がありましたという話を、私は聞かせて頂いて、「なるほど、そうだな」と、こう思うた。してみると今日の御理解に、やはりそれがピッタリする様な感じです。年寄りを大事にするとか敬うとか尊ぶとか、と云う事が信心の心掛けなら、是は年寄りと云う事はどうしても、お粗末にされがちないうなら立場になるのです。年寄りはどうしても年寄りはないがしろにされる立場にあるのです。
若い者は大事にするけれども、年寄りを大事にする。それが敬うという所までは中々いかん。けれども信心をさせて頂く者の心掛けとしてですね、そうしなければならない。そうする事が事実は本当である。そこでなら皆さんに今日解って頂きたい事は、ただ通りいっぺんの大事にしておると言った様な事ではです、なら教化と云う事までにはなって参りません。徹底しなければ。
「年寄りちゃこげんも大事にしなければならんもんだろうか」と云う様な徹底したものがあるならばです、例えば私のことで言うならば、私の家内やらが、子供達やらが年寄りを粗末にする筈がありません。それが教化です。誰でも自分の親は大事にする。人からして貰いたい。家内やなんかが粗末にしよると、もう、腹ん立つごとある。あっちん嫁御は年寄りを大事にしなさらん。ろくそに扱わっしゃる。
そんなら先ずですね、その息子自身がね、どのくらい本気で親を年寄りを大事にしておるかと云う事を、思うて見たらよいのです。私は、これは信心させて頂く者の心がけなのですから、心得なのですから。私は本気でこの辺の所を、取り組ませて頂かなきゃいけないと。例えば、お互いが、先程からも私が申します様に、自分の周囲に、確かに家庭なら家庭に信心の雰囲気を持ち、思う様なおかげを頂きたい。主人が信心をしとるなら、家内にも信心をして貰いたい。子供達も付いて来て貰いたい。
だから、通りいっぺんの、ただ大事にしておると言った様な、ただ人物が良いと、言った様な程度の信心ではですね、ついちゃきません。その信心が本当に白熱化してこなければ、周囲に燃え移りはしません。いくら口で「お前も参れ。」「さああんたも参んなさい。」と言うた所で絶対参りはしません。例えばここで今私の信心が白熱化してくる。もうとにかく一にも金光様、二にも金光様と言うて。
あれ程金光様一心に縋って助かろうとしておるのだから、私達がついて行かにゃおられんと親も家内も、子供達も言う様にならなきゃいけません。私それも自分の信心にそれを思います。二十何年前の自分の信心に、成程信心はありましたけれども、信心がただ本当に信心になって来る。生き生きとしたものになって来る、家族中が。それは私が、「あんたも参ってくれ。」「さあ、お前も参れ。」と言わんでもです、「息子があれほどに一生懸命になっておる。」母なんか言うておりました。
朝晩、私がお水を掛からして貰う。「どんな寒中でも、井戸端に出てからお水を、あのお水を掛かって、『金光様、金光様』と言うておる姿を見たらね、おがまにゃおられん。あの人に付いていかにゃおられん。」という意味の事を言うております。母が。信心が白熱化しておる。もう一にも金光様、二にも金光様で助かろうとしておるのであるから、皆もその線に、「もう、うちの父ちゃんが、そりゃ参るこた参るばってんから、ようごつ(?)しちょるもん。」。ただ「信心しとります。」と
言った様な事じゃいかん。「年寄りを大事にしろ」でもそうです。ただ普通通りいっぺんに、ただ粗末にはしよらんという程度じゃいかん。本当に年寄りちゃこげんも大事にせんならんもんだろうかというものを、いっぺん、いっぺんじゃない、そういう心の状態にならせて頂くから、その人の周囲に、年寄りを大事にする人達が出来て来るのである。信心でも同じ事。
「もううちの息子がいっぺん参って来ると良いですけど」。まあだあなたの信心が白熱化していないからです。「どうでも金光様でおかげを頂かなければならん。助けて貰わんならん。」という、その一念が燃えて来るとです、金光様の信心ばかりは付いて来にゃおられんのです。本当は「教化は説法ではない。その人の生活である」此処ん所を私は今日の80節から今日は本気で皆さん身につけて頂きたいと。その人の生活全体がですもう一にも金光様、二にも金光様と云う事に成って来る時に教化がなされます。
信心の雰囲気がその辺に漂うて来ます。皆がその人に付いて来ます。「うちにゃ年寄りを粗末には決して扱いよらん」と言う所は沢山ありますよ。又それでなきゃ、それでなからないと、嘘ですものね。だけども粗末にゃ扱いよらんばってん、大事には扱いよらん。親孝行でもそうです。親孝行せにゃん事はわかっとる。だから親不孝の者ちゃ、そげん滅多におらん。けれども本当に、親を大事にしなければおられん。親孝行しなければおられない。もう親孝行しようごとしてたまらん。
親に喜んで貰いたいごとして堪らんちゅうとはごく少ないです。今日私が言ってるのはそれなんです。「親に喜んでもらわんならん。親を大事にせんならん。」。その程度ならたいがいの者が言うたり、思ったりしよります。けれども本当に「親を大事にしなければもうおられん。親に喜んで貰おうごとして堪らん。」という程しの私は白熱化と言うのはそういう意味だと思うんです。そう云う事に成って来る時にです。例えば一家中の者が年寄りを大事にする事になるのです。
それが信心の、さして頂く者の心がけともなるのですから、おかげを受けないはずがないです。信心をしとっても、その心掛けがなっとらんから、おけげにもならない。徳にはなおさらならないと云う事になるのじゃないでしょうか。「信心する者は、良う心がけておるがよい」と仰る。そこで、私は、年寄りというのは、いかにも、どうも邪魔者扱いされる傾向が、もう世の中全体に、やっぱりあります。だから、そういうことではおかげは受けられんぞと教祖は教えられた。
いうなら大事に、あんまりされない様な所を、大事にしていけと、こう仰る。そこで私は、ここん所をです、例えばなら、反古紙1枚の上にもそれを皆さんに今日聞いて頂いた。反古紙1枚でもです、神様の御物として、尊ばなければならない。大事にしなければならない。それが、信心させて頂く者の心がけなのです。それで、こんなに大事にしなければならないもんだと言うて聞かせる事は要らん。私の生活全体で、それを大事にして行ったらいいのです。
「本当にうちの親先生は、もう反古紙1枚でもお粗末にされなかった。」と。そして、私が例えばお徳を受けるとするなら、ああいう生き方にならなければ、矢張りお徳は受けられんもんだろうと云う事がです、例えば言うておかなくても、実際私が、生活の中にそれがあるとするなら、必ずそれが残るに違いない。それが無言の教化だと私は思うておる。皆さんどうぞ一つ本気で、年寄を大事にする心がけを作らにゃいけません、敬まわにゃいけません。大事に大事に粗末にしとらんと言うだけじゃいけません。
それが信心者としての、是は、心掛けであるのですから。いかにも私は年寄を大事にしよりますて、撫でたり擦ったりするこっじゃないです。もう本当に心からです、それを頂かせて頂かなければ居られないその心がね、神様に通うのです通じるのです。折角信心させて頂くのですから、本当に神様に通じ、通う様な信心をさせて頂きたい。それにはそのどうでもとか、そう例えば親孝行せにゃならん事は解っとるだけではなくて、その親孝行せにゃおられんという。
しゅうごとして堪らんという、年寄に喜んで貰おうして堪らんというその心を、私は今日は白熱化、白熱化という風に申しましたですね。信心でもそうです、自分の頂いておる信心が有難いなあ、それを子供にも家内にも伝えたい、周囲の者にも伝えたいならです、ただ信心しよります、毎日朝参りしよりますという程度じゃいかん。それが白熱化してこなければ、成程うちの親父があれ程、一にも金光様、二にも金光様で。あれだけ父が言うとんなら。
その信心の姿に付いて行かなければ、居られないという程しのものをです、身に付けて行きたい、折角ならば。それ程白熱化した信心にならせて頂きたい。ご飯を炊くでもチョロチョロばつがり炊いとったっちゃ生煮え、ほんなご飯は出来ません。炊く時はパアーッと燃やさせて貰い、火の加減一つで良いご飯が出来ると言われる様に、本当にままになるおかげを頂きたいならばです、それこそ他人にそれが言わんでも伝わっていく程しのです、白熱化した信心が求められる訳でありますね。
どうぞ。